平尾賛平商店の歴史

革新性と美意識

長く鎖国状態あった日本が新しい価値観を受け入れ、近代国家への道を歩みはじめた明治時代。一人の青年が東京・神田に一軒の売薬店を創業しました。これが平尾賛平商店の長いあゆみの始まりです。

開店からまもなく化粧品の開発もはじめた同店は、国産の化粧水や歯磨き粉を他社に先駆けて発売。これらの商品は全国的に人気を博し、日本の化粧品業界を牽引するトップブランドにまで成長します。この成長の原動力となったのが、当時はまだ珍しかった技術の数々を商品に取り入れた革新性と、西洋から伝わった文化を日本人向けに解釈し、多くの人を虜にしたその美意識です。

この革新性と美意識の調和こそ、私たちが有象無象の情報に溢れたこの令和の時代にふたたびもたらせんとするものに他なりません。

ルーツ

1846年、徳川幕府の御用商人として栄えた平尾家の分家、平尾清助の元に誕生した賛平は、三井組(現在の三井グループ)での勤務などを経た後に、1878年に東京・神田で「岳陽堂」という店舗を構え、国産化粧水の始祖と言われる「小町水」を発売します。この商品は、全国的な大ヒットを記録し、翌年には店舗を日本橋に移し事業を拡大。1883年には「牡丹香水」が宮内省調達係より御用達の指定を受ける栄誉にも恵まれました。

ダイヤモンド歯磨

1891年、文明の発展と衛生観念の向上と共に化粧品の需要も増えつつあったにも関わらず、供給を海外からの輸入品に頼るばかりであった現状を憂いた賛平は、現代的な西洋式粉歯磨きの初の国産化に踏み切ります。

当時慶應義塾大学に在学中であった賛平の息子・ 貫一によって「ダイヤモンド歯磨」と名付けられたこの商品は、日本において初めて洋名がつけられた化粧品として知られ、その後たちまち国内トップシェアを誇る歯磨き粉となり、後には中国、朝鮮、アメリカにも輸出される定番商品となります。この商品のヒットによって、事業もさらに成長しようとするその最中、1897年に初代賛平が他界。息子の 貫一が初代を襲名し二代目平尾賛平となりました。

「レート」ブランド

若干23歳で父から事業を継承した二代目平尾賛平は、1900年に視察研究のためヨーロッパに渡ります。帰国後、牛乳に含まれる成分が美容上有効であることに注目して研究開発を行なった商品「乳白化粧水レート」を発売。化粧品の先進国であるフランスのイメージが強調され、フランス語で牛乳を意味する「Lait」から名付けられたこの商品は、当時の消費者に熱狂的に迎えられました。

その後も、日本初である無脂肪の植物性保湿クリーム「レートクレーム」や化粧品業界で初めてキャッチフレーズをつけて売り出された商品「レートフード」をはじめ、白粉やポマード、ローション、石鹸、口紅など、多種多様な化粧品を「レート」の名を冠して発売し、平尾賛平商店は昭和初期に至るまで、日本最大の化粧品メーカーとして確固たる地位を築いたのです。

広告

平尾賛平商店は、製品の革新性のみならず、洗練された広告によっても人々の心を掴みました。新聞に化粧品の広告が掲載されたのは平尾賛平商店の「小町水」が初めてと言われ、当時の人気作家たちが制作に携わっていました。中でも「レート」ブランド発売後の昭和初期には、藤田嗣治や竹久夢二、岩田専太郎など、今でも高い人気を誇る一線級の才能が集ったほか、原節子など映画女優の写真を使った広告も見られます。広告活動は、新聞や雑誌のみならず、屋外広告、コンサートや映画上映、飛行船なども利用され、古くは9代目市川團十郎、5代目尾上菊五郎らが出演した河竹黙阿弥作の歌舞伎「天衣紛上野初花」の劇中のセリフに商品を登場させたり、「児雷也豪傑譚」にも錦絵広告を出した記録が残っているほか、帝国劇場とタイアップして企画した「レートデー」は、新聞・雑誌広告も巻き込んだ、特に大規模なキャンペーンでした。

衰退と復活

戦前、化粧品のトップブランドとして君臨した平尾賛平商店でしたが、第二次世界大戦の戦火により東京支店、大阪支店、工場が焼失。1943年に二代目賛平が永眠した後は、営業も不振を極め、平尾賛平商店は表舞台から徐々に姿を消すこととなります。

しかしながら、創業から約140年余りが経過し、社会情勢も大きく変わった今日においても、平尾賛平商店の先端技術を常に取り入れ続けたその革新性と、時代の寵児達と共に形作った美意識の価値は、色褪せることはありません。

生まれ変わった平尾賛平商店の使命は、革新性と美意識によって彩られた物語を、かつて初代賛平が切り拓いたオーラルケアの分野を舞台に再び語りなおすことです。藤田嗣治が「レートクレーム」の広告コピーとして残した言葉のように、これからも前向きに事業に邁進して参ります。

「今日の女は、明日の女 / 明朗、快活 / 蒼空を行く無敵荒鷲の如くあれ - 藤田嗣治」